1896年夏。鉱夫ロバート・ヘンダーソンがクロンダイク川に流れ込んでいる支流であるゴールドボトム・クリークで金が取れることを発見しました。彼とその仲間は、わずか3週間たらずで750ドルもの利益をあげました。ここから歴史的に有名なクロンダイクのゴールドラッシュが始まります。
ヘンダーソンの金鉱の件から数日後、ジョージ・カーマックと彼の先住民の親類であるドーソン・チャーリー、スコークン・ジム・メソン、カーマックの妻ケイトは、クロンダイク川の河口でキャンプをし、ラビット・クリーク下流で金探しを続けていました。3日後、食糧が無くなった為、ジムはムース狩りに出かけるのですが、その時、水底に今までに見たこともない量の金が沈んでいるのを発見しました。カーマックはペンでトウヒの木の平らな所に「ここから上流500フィートは俺のものだ。1896年8月。ジョージ・カーマック」と記し、その川の上流付近にジムの名前を、下流付近にチャーリーの名前を書き残し、自分達の所有物ということを明確にしました。
カーマックは道々に出会う鉱夫達に金鉱発見の話をし、そこまでの行き方まで説明してやりました。しかしながら、元々知り合いだったヘンダーソンには何も伝えませんでした。ヘンダーソンは以前、先住民一味に食料を盗まれたことがあり、カーマックの先住民の親類達を誰一人として信頼しておらず、カーマックは彼の先住民の親類達に対するヘンダーソンの侮辱が許せなかったのです。 フォーティーマイルに行く途中、カーマックは仲間の鉱夫達に彼の幸運話をし、北西騎馬警察隊NWMPにも報告しました。翌日の夜明けには、フォーティーマイルの街はゴーストタウンとなり、北西騎馬警察隊のメンバーでさえ、上官を説得し、ラビット・クリークへと急ぎました。
1896年8月22日、ラビット・クリークはボナンザ・クリークと改名されました。それぞれの金鉱はロープで適当に長さを測って決められましまたが、その測量には問題が多かったため、政府の測量士であるウイリアム・オグリビーは何週間もかけて、政府の規制を守るため金鉱の測量のやり直しをしました。 そうこうしている間にも、カーマック、ジム、チャーリー、ケイトは金鉱に戻り、働き始めました。カーマックはくずを取り除く作業をしていましたが、この作業はあまりにも原始的で、金を無駄にしていました。1日に回収できた金の量は約5オンスで(1オンス=28.35g)で、3週間で$1,400の収益があがりました。
冬が始まった頃には、約300人の男達がボナンザクリークで働いていまおり、冬を過ぎてもこのラッシュは続きました。一攫千金を求める多くの人が、凍った川の上を、犬ゾリやかんじきを使って金鉱へと向かい、1897年1月6日までには金鉱の数は500を超えました。
ゴールドラッシュのきっかけとなり、最初の金鉱を発見したヘンダーソンですが、カーマックが発見した金鉱の存在を知ったのは、カーマックの発見から2、3週間後のことでした。彼も新たな金鉱を発見しようと必死になりましたが、時は既に遅く、クロンダイク川の支流にはもうほとんど金鉱は残っていません。それでもヘンダーソンは金が出そうなところを3ヶ所見つけ出し、自分の金鉱として登録しようとしましたが、法律が変わり、彼は1箇所しか金鉱が登録できないこと知らされます。
このように惨めな経験をしたヘンダーソンは2度と周りの邪魔をしなくなりました。ついには病気になり、自分の金鉱を$3000で売らざるを得なくなり売却します。この金鉱はその後$200,000で売られ、最終的に購入した人に$450,000の利益をもたらしたと言われています。
失意のヘンダーソンは、残りの人生をクロンダイク・ゴールドラッシュの始まりとなった、金の第一発見者として認めてもらうための運動に費やしました。数年後、カナダ政府はそれを認め、年に1度、その功績に対する恩給を彼に与えることにしました。これは愛国心ゆえに決定されたことと言われています。カーマックはアメリカ人で、ヘンダーソンはノバスコシアのピクトウ出身でした。ジムとチャーリーは先住民のため、カナダの市民権がありませんでした。ヘンダーソンの名は、クロンダイク・ゴールドラッシュの最初の金を発見した人物として歴史上に残されています。
金の発見者達は長い冬の間も金を掘り続けました。約80人と言われる最初の成功者たちは、雪解けとともにそれぞれ$25,000から$500,000相当の金を箱やスーツケース、ジャムの瓶、薬の瓶、古い缶、毛布、カリブーの革で作った袋などに詰め込み、アメリカに向かいました。アラスカ沿岸のセント・ミカエルでサンフランシスコとシアトル行きの汽船「エクセルサー号」と「ポートランド号」に乗り換えました。エクセルサー号は1897年7月14日に最初に港に着き、その船にたくさんの金が積まれたいと言う噂が広がりました。この情報を聞きつけた新聞社は、シアトルのポートランド号の泊まっている埠頭へ急ぎました。何千人もの人が、1トンもの金がおろされるのを見に来ていたからです。
最初の金を積んだ船がアメリカについた後、シアトルではセント・ミカエルを目指す人で溢れかえり、一晩のうちに船賃は跳ね上がりました。人々は航路以外の方法でもクロンダイクを目指すルートを発見するため、様々な職業の人々が仕事を辞め、家族を置き去りにし、陸路でクロンダイクへと急ぎました。当時のカナダの地図ではエドモントンが西部鉄道の最北にあったため、多くの人々がエドモントンを目指し、また、その他の人々はバンクーバーへと向かいました。合計で約1,600人以上の男女がドーソンシティーを目指し、2,400kmもの荒地を横断していきました。 延べ約100,000人がこのクロンダイク・ゴールドラッシュに参加しましたが、そのうち約40,000人だけが、クロンダイクへと繋がる道である「トレイルオブ98」を通りました。その他の人はシアトル、バンクーバー、エドモントンよりも近づくことはできませんでした。何千人もの人がお金も決断力も失い、アラスカ北部沿岸やブリティッシュ・コロンビア州で病気になり、故郷へ帰り始めました。多くの人は、この厳しい旅を遂行できず、引き上げるか途中で亡くなってしまいました。
噂を聞きつけて旅立った人々が、ドーソンシティーにたどり着いた時には、ほとんどお金になりそうな金鉱は残っていませんでした。それでも少数の人は新たな金鉱を発見し、また、鉱夫相手の商売をすることで儲ける人もいました。しかし、大多数は最終的にただ危険な冒険をしただけで、それ以外は何の成果もあげられず故郷へと戻っていきました。
莫大な数の人口がユーコンに押し寄せたにも関わらず、クロンダイク・ゴールドラッシュは北米の歴史の中で最も平和でした。それは銃の所持を認めない北西騎馬警察隊NWMPの努力によると言えるでしょう。ゴールドラッシュに押し寄せた人々はほとんどアメリカ人で、彼らはカナダの法律を守っていました。測量士のオギルビーは金鉱にそれぞれ印をつけ、登録し、金鉱の取り合いによる争いを防ぐ努力をしました。
1898年の夏、スペイン対アメリカの戦争が勃発、またアラスカのノームの海岸で起きた別のゴールドラッシュによって、人々はドーソンやクロンダイクから移動し、カナディアン・ドリームであるクロンダイクでのゴールドラッシュは終息に向かうのです。
科学技術の進歩により、金の採掘はより洗練された方法で行われるようになりました。 現在においても、クロンダイク川やその支流では年間約60トンが産出されており、金額にすると約52億円にもなります。